理念

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(故)村上周平 日本エゴマの会会長

地域自給共同体のために

私の生まれ育った、福島県田村郡船引町中山・横道地区は純農山村です。山に木を植え、里に家を建て、せまい農地に野菜やくだものを植え、大麦、小麦、アワ、キビ、大豆、小豆などを植え、水田に米を作り、衣食住すべてを自給していました。

こうした小農自給農業の最盛期、今から70年前の中山・横道にはたくさんの子供がおり、中山小学校の私の6年生クラス(昭和10年、1935年)には45人、全校で200人の児童がいました。しかし2003年4月時に一年生から六年生までの全校児童は47人(全盛期に四分の一)に減り廃校となりました。なぜ子供が減少したのか?それは200世帯ある中山・横道の家族に子供を育てる若い夫婦が減少したからです。

戦後日本の政治は小農自給農業を軽んじて、工業都市国家となり、商工の輸出入を盛んにしていわゆる国際都市国家となり、安い農産物が輸入され小農自給農業の農産物が競争に負けた結果、この山村の自給生活農業の経済が崩壊し、若い跡取り(後継者)が都市の他産業に転出し、子供が激減し中山小学校が廃校となったのであります。

しかし、このような商工業経済成長を重視する国つくりが永久に発展するのでありましょうか?そうは思いません。何事も始めがあれば必ず終わりが来ます。

軍事大国の日本の亡び

近代日本国家の興亡は、明治以来136年間に二度の亡国に見舞われました。その一つ目は軍事大国日本の亡国です。明治政府は富国強兵の政治を行いました。明治5年に徴兵令を発令し国民皆兵の国をつくり、アメリカ、イギリスに次ぐ世界三大軍事大国になりました。

明治27-8年の日清戦争で中国に勝利し台湾の領土を得ました。明治37-8年の日露戦争ではロシアに勝利して樺太(サハリン)を得ました。明治43年には無理やり朝鮮を合併しました。(以来36年間日本の武断政治は朝鮮・韓国の人々に多くの死の苦しみを与えました。そのうらみは60年後の今も消えていません。)

大正3年、第一次世界大戦でドイツより南洋諸島を得ました。昭和5年、中国より満州を独立させて日本の属国とし、昭和12年シナ事変を起こして中国大陸に大軍を送り、奥地の黄河・蘭州や長江・重慶まで爆弾の雨を降らせました。そしてついに昭和16年(1941年)12月8日ハワイの真珠湾に360機の魚雷攻撃で奇襲し、大東亜共栄圏確立という名目で太平洋戦争を一億国民総動員で戦いました。しかし、刀折れ矢つきて、1945年(昭和20年)8月15日に無条件降伏しました。

広島、長崎に人類初の原子爆弾を落とされ、全国都市の80%を焼夷弾で焼かれました。ここ中山・女房内の紺野儀平氏所有の水田にも爆弾が落とされました。大きな穴が二つあき、復員後の私はこの水田を父、儀平や兄の健一とみんなでモッコを担いで穴を埋めました。あの時の爆弾の破片で足を切ったのを覚えています。

当時は地下足袋も長靴もなく、皆裸足で田畑の仕事をしました。普段は草履を履いて野山を歩いていました。これは1946年(昭和21年)5月の田作りの時のことでした。

敗戦によって日本は元の北海道、本州、四国、九州の島国にもどり、かつての世界三大軍事大国日本は完全に亡んだのであります。この間わずか76年です。剣によって栄えた日本は剣によって亡びました。

「戦(いくさ)四・五・六(しごろ)」つまり昭和4・5・6年ごろは軍人でなければ人でないような軍国時代でしたが、わずか15年後に500万人の同胞・親子・兄弟を失い、原子爆弾を浴びせられ亡ぶことを誰が予想したでしょうか?(内村鑑三や藤井武は敗戦の20年前に日本がアメリカと戦争して敗れると預言していました。藤井武著「聖書より見たる日本」参照。)

この戦争に私は航空魚雷整備兵として九州・鹿屋航空基地で特攻隊の戦闘機に魚雷を搭載中、アメリカのグラマン戦闘機に襲われました。この戦争で同級生の渡辺一君(下馬沢)も渡辺勇君も戦死しました。

遠中山の斉藤ナツヨさんの夫、重夫さんが沖縄で戦死しました。「夫の戦死が悲しくて泣きました。父を知らない赤ん坊の重平を抱いて泣きました。しかし今では涙も枯れてしまいました。」とナツヨさんは同級会で語ってくれました。緑小学校(旧移小学校)わきの慰霊碑に167柱の戦没者が刻まれています。あの大東亜戦争で人口わずか五千人の旧移村で167人が戦場で尊い命を失ったのです。

一発の原子爆弾は日本の頭上に炸裂し閃光一瞬、広島、長崎は跡形もなく消え去り、罪なき数十万の市民はしかばねの山となりました。空をおおい水をふさぎいでくる戦闘機と戦闘艦の攻撃により、大東京、大阪、名古屋をもって代表する都市の壊滅は80%におよび数百万の命を代償として「七〇年の辛苦は一日にして消え、二千年の栄光は一夜にして崩れ、空に光りなく、民に生気なし。剣によりて建てしものは、剣によりて奪われ」祖国はここに亡び去ったのです。(矢内原忠雄「哀歌」参照)

経済大国の日本の亡び

敗戦と焦土の中から新しい日本は、戦争のない平和国家として、その国造りを始めました。戦争直後に来たものは食糧飢餓でした。敗戦当時日本の備蓄食糧は三ヶ月分しかありませんでした(石黒農相談話)。

東京だけで三百万人が餓死寸前でしたが、アメリカの援助によって助かりました。学校給食はその時の遺物です。一億総国民は肥料も農機具もない中、皆百姓をしました。

城広場も日比谷公園もさつまいも畑となったのです。しかし、完全自給農業の発展によって自給率は戦後十年間で83%まで達しました。こうした基礎の上に近代工業の発展はすえられ、その後一〇年で高度経済成長の準備は完了しました。そして鉄工業、石油工業、自動車産業、電機産業などがその工場よりはき出す製品は世界の果てにまで伸び、まさに西ドイツをしのぎ、アメリカに迫ろうとする勢いでありました。

一〇年後に日本のGNP(国民総生産)は世界第一になるであろうと、経済学者は予想し、政治家も国民もバラ色に輝く未来の日本経済を信じて疑いませんでした。

1961年に東京オリンピックを誘致し、1973年には大阪に万国博覧会を開催し、工業国日本、富国日本を全世界に誇示しました。そして農業者もこの近代産業との所得格差を無くすべく近代経営に脱皮せよ!企業化、専業化、機械化、多頭化、集約化など20年後、30年後の未来像を示し、530万戸の農家は30万戸いや20万戸で足りる!そして農民も相和して「然り!」「その通り!」と・・・

しかしながら、私は一人つぶやきました「本当にそうなるであるろうか?果たしてそれがただしいのであろうか?」と(村上周平「聖書に学ぶ日本農業のゆくえ」1971年昭和46年参照)。

日本の高度経済成長は昭和36年(1961年)池田首相による所得倍増論から始まり田中角栄首相の日本列島改造論で拍車がかかり、昭和64年(1989年)11月まで続きました。

しかしこの経済成長のバベルの塔は平成元年(1989年)12月突如として崩れ出しました。「バブル」崩壊です。ただ国民が気づいたのは平成3年(1991年)です。

このバブルによる景気の低迷は外からの衝撃で起こったのではなく内からの崩壊でした。平成3年(1991年)以来毎年のように政府は景気のてこ入れ政策を強行しましたが、全く効果が現れませんでした。この15年間の景気の低迷と株価の暴落により企業の倒産と失業者は続出し、銀行の不良債権処理に国民の税金を100兆円を費やしました。

戦後60年、経済大国を目指した日本は本当に富が豊かになったのでありましょうか?答えは「ノー」です。日本は富の大国ではなく、借金の大国となったのです。現在、国民一人あたり700万円の国債という借金があり、福島県債は60万円、船引町債は70万円となり合計830万円の借金をかかえる、世界一の借金大国となってしまったのです。

ここに日本国の財政は破綻したのであります。(2001年3月8日の衆議院予算委員会において宮沢財務大臣は「日本の財政は破局に近い」と語りました。村上周平「みみずのたわごと」参照。)経済大国日本の国つくりは再び失敗しました。この経済財政破産の処理にはあと十数年かかるでしょう。

自給皆農国日本の再生

即ち、世界的平和到来の時には、人は各自小地主となりて、己が手にて作りし物を食い、己が建てし家に安んぜんとの事である。言あり曰く、「神は田舎を作り、人は都会を作れり」と

そして所詮文明は都会文明である。人が集合して相扶けて、最大限度に地上の生命を楽しまんとする努力である。

そして夫れが凡ての患難を生じ、競争を起こし、戦争を産んだのである。人が人に頼らずして神に頼る時に彼は自づから独立に成る。直に天然に接して、天然を通うして天然の神に近づかんとする信仰の人は自づと都会を離れて田舎に住まんとする。

己が葡萄樹の下に坐し、己が無花果樹の下に居る事は彼の理想である。世界的平和は自作農業の発達を促す。

末の日に神の国が地上に建設せらるる時には、東京、大阪、名古屋と称するが如き人間の集合地は跡を絶ちて、之に代わるに全国に渉る小地主の自作農業の繁栄をみるであろう。」

内村鑑三「平和実現の夢」1928年(全集31巻38ページ)

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ふるさとの美田を耕さず、その鍬を捨てて田畑を荒らし、ソロバン勘定によって都会に出た人たちはこれからどうしたらよいでしょうか?

答えは簡単です。捨てた鍬をもう一度拾って荒れた田畑を耕すことです。外から富を奪ってくるのでなく、昔からの自給自足の百姓として平和に生きることです。売る農業でもなく、買う生活でもなく、自分で作り自分で食べる生活をすることです。

山に木を植えて住まいを作り、田に米を作り、畑に野菜、果菜、大麦、小麦、アワ、キビ、ソバなどの雑穀を作り、梅、桃、プラム、キウイフルーツ、ブドウ、リンゴ、クリ、サクランボ、ナシなどの果実を育て、みそ、しょうゆ、とうふ、なっとう、コンニャクなどを加工し、餅つきや製粉したものからパン、うどん、ソバ、菓子、飴などなんでも食卓にのぼる加工品を自分で作るのです。

酒、どぶろく、焼酎、ワイン、ジュースも作ります。魚は泥鱒を田圃に飼います。鯉も水田に放して除草を兼ねて育てましょう。きれいなわき水でマスを育てることも出来ます。

ニワトリは一人に一羽で年間300個の卵を産みます。アイガモで水田の除草をして肥やし、鴨鍋としてもいただきましょう。またヒツジ一頭からセーター二着分の毛糸が出来ます。大きいヒツジからは羊毛布団一組が出来ます。

40年前頃まで中山・横道でも桑を植え蚕を飼って糸をつむぎ、八重絹の晴れ着や紋付き織物や袴をつくり、またヒツジの糸を横糸に絹糸を縦糸にホームスパンをしました。昭和23年(1948年)私の母(紺野初美)はホームスパンの背広を作って兄と私と二人揃いの背広を仕立てました。その背広を着てわたしは25才の青春をさっそうと楽しんだのを思い起こします。

昔は正月も自給の料理でしたから食べ物には何一つ不自由なくのんびりと生活したのを覚えています。今の生活は食物のほとんどを買って食べます。だからお金が必要となってきました。40年昔のように何でも自給したなら都会生活者の三分の一の家計費で十分楽しく生活できます。

地域自給園の構想

明治以来の二度の国つくり、家つくりに日本は失敗したのですから、三度目の正直として昔の自給自足の平和な生活を改めて見直し、昔個人でおこなった加工自給を、今度は共同加工による地域自給生活圏の確立を目指すことを提言します。地域自給、地産地消はこれからの日本経済復興の源流となるのです。

私の住んでいる大字中山・横道200世帯、人口800人の食べ物を自給するには原料を加工する設備が必要になります。加工すれば付加価値が3~10倍になり、生活費は三分の一から十分の一でまかなえるようになります。では加工の付加価値は具体的にどのようなるのか。大豆の納豆加工を例に取り上げたいと思います。

納豆を作るためにはまず(1)原料の大豆を煮ます。(2)40度に冷まして納豆菌を入れます。(3)100gパックににその煮豆を詰めます(4)パック詰めしたものを発酵室に入れ24時間発酵させます。(5)次の日に納豆が出来上がりです。

この工程は二日ですみます。60kgの大豆は加工の過程で水分を含むため120kgの納豆原料となり、そこからは100gパックが1,200個できあがります。1パック58円で小売りすれば69,600円(1200 x 58)の売り上げが単純計算できます。

加工の費用は(1)燃料代2円(2)菌代 わずか(3)パック代1円、(4)設備費2円、(5)消費税3円、合計8円です。納豆(100g、商品名:本宮納豆)は常葉の清水ストアーで58円です(4月26日)。

その原料となる国産大豆は60kgで10,000円です。また有機納豆(100g、商品名:東京ネコフ納豆)は三春の横山商店で128円です。その原料となる完全無農薬有機栽培大豆は60kgで60,000円です。

納豆の諸経費を繰り返しますと100gあたり8円です。普通栽培大豆の納豆の場合、100gあたりで50円(58円-8円)の収入となり、納豆120kgでは60,000円(50 x 1200)の収入となります。収入から原料代を引いたのが付加価値ですから、普通栽培の大豆から納豆を作ると50,000円(60,000 – 10,000)の付加価値が得られることになります。

有機大豆の納豆の場合、100gあたりで120円(128円-8円)の収入となり、納豆120kgでは144,000円(120 x 1200)の収入となります。収入から原料代を引いたのが付加価値ですから、有機栽培の大豆から納豆を作ると84,000円(144,000 – 60,000)の付加価値が得られることになります。

地域自給共同体とエゴマ

大字中山、大字横道は昔から小学校を中心とした地域共同体でありました。

この200所帯800人が打って一丸となり地産地消自給加工生活共同体をつくり育てましょう。第1の着手として200所帯800名、一人1アールまたは2アールのエゴマをつくりましょう。

「エゴマ」とは昔から先祖がつくり食べつたえられた「じゅうねん」のことです。反当たりのエゴマ収量は多い人で160kg、少ない人で40kg
、平均100kgです。一人1年間の消費量はエゴマ種2kg、食用油10kg
です、合計12キロです。(日本人の消費量)

田村黒原種の搾油率は1kgの種子から360ccの油が出ます。毎月1回1kgの油を搾って新鮮な無添加のおいしい油が1日10g~15g食べることになります。しかも完全無農薬自然栽培ですとより一層健康と安心が得られのです。